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TOP > 壱岐めぐり情報 > 壱岐の人物伝情報 > 壱岐の人物伝検索結果
壱岐の人物伝情報


9件の人物が該当しました。

人物名 熊本利平
生涯 明治13(1879)年
昭和43(1968)年
生誕地 石田町
業績 熊本利平は、現在の石田町印通寺浦で生まれました。下関商業から慶應義塾を経て、24歳で朝鮮半島に渡りました。そこで約4千町歩の大規模農場経営者になりました。朝鮮実業界の発展に貢献する傍ら、郷土の産業振興、特に教育の充実に尽カし、人材の育成、東京成城学園や壱岐高等女学校への寄付、留学生の派遣、石田小学校敷地及び講堂の寄付、印通寺防波堤の築造など、郷土の発展に多大な貫献をした人物です。その功績が認められ、1942年(昭和17)10月に「花雲亭」を賜りました。

人物名 後藤正足
生涯 元治元(1864)年
没年不明
生誕地 郷ノ浦町
業績 後藤正足は、郷ノ浦町志原地区で生まれました。神職の家に生まれるものの、小学校の先生になり教壇に立っていました。大正6(1917)年に志原大国神社の神官となり、その後は吉野家に残る文書類を研究し、翌年に「壱岐郷土史」を、大正15(1926)年に「壱岐神社誌」をまとめました。壱岐神社誌は、壱岐島内に残る式内社を中心に主要神社の由緒や祭祀歴などを記録しています。

人物名 品川鉄摩
生涯 明治36(1903)年
平成元(1989)年
生誕地 勝本町
業績 品川鉄摩は、勝本町新城東触で生まれました。大正11(1922)年に長崎県師範学校(ながさきけんしはんがっこう)を卒業し、島内の学校をはじめ、長崎県内の学校の教壇に立ちました。退職後は、郷ノ浦町の文化財調査員、壱岐の自然を育てる会会長、環境庁自然公園指導員、壱岐名勝天然記念物保護理事、日本植物学会会員などの職を通じて、壱岐の郷土の植物研究を続けて、広く学会で紹介し、多くの新発見をもたらしました。長崎県の天然記念物に指定されているスキヤクジャク群落の発見など多くの功績を残しています。

人物名 竹田黙雷
生涯 安政元(1854)年
昭和5(1930)年
生誕地 勝本町
業績 竹田黙雷は、現在の勝本町で平戸藩士竹田勝治(克治)の4男として生まれ、熊雄と名づけられました。7歳の時に出家して宗熊と改め、14歳で宗尤と改名しました。15歳で福岡へ渡り、旧黒田藩の儒学者亀井南冥から漢字を学び、旧秋月藩の儒学者近藤木軒に儒学を学びました。その後、約20年にわたり京都大徳寺や建仁寺をはじめ、福岡や長崎にあるお寺で重要な役割を担いました。明治13(1880)年に宗淵に改め、黙雷と称しました。39歳で管長の職に任命され、仏教の発展のため僧侶の教育と育成に全力を注ぎました。以後約40年にわたる管長職の間に約4000人の弟子が教えを受けました。弟子の中には、伊藤博文をはじめ、政治家、芸術家、仏教学者など様々な分野の有名人も含まれており、難しい禅学を分かりやすく教え、親しみやすいものとしたことでも有名な人物です。

人物名 中上長平
生涯 天保11(1840)年
明治42(1909)年
生誕地 勝本町
業績 中上長平は、勝本町勝本浦で生まれました。実家が海産物を取り扱う仕事をしていたことから、幼少の時より漁業に興味を持ち、17歳で独立し、本格的に漁業の仕事を始めました。新漁場の開発や新たな捕獲方法の考案し、改良を重ね、漁業の発展に貢献しました。また天候の予測や魚類の習性などの研究にも取り組み、得た知識や情報を多くの漁民に伝え、漁獲高が一気に向上しました。生前の実績から「漁業の神様」と呼ばれ、尊敬された人物です。

人物名 久田清信
生涯 明治14(1881)年
昭和39(1960)年
生誕地 芦辺町
業績 久田清信は、芦辺町中野郷で生まれました。明治40(1907)年に長崎県師範学校(ながさきけんしはんがっこう)を卒業し、壱岐島内の学校で先生として、教壇に立ちました。在職中には、自主学習のダルトンプランを壱岐に導入し、一時県下の教育王国と呼ばれるまでに成長しました。盈科小学校の校長時には本田清信をはじめ、島内の校長6名と共にアメリカに渡り、教育視察を行いました。退職後は、県議会議員に4回当選し、長崎県教育委員長に選ばれました。本田清信は晩年、久田家に養子したため、久田清信の名で呼ばれている。

人物名 松永安左ェ門
生涯 明治8(1875)年
昭和46(1971)年
生誕地 石田町
業績 松永安左ェ門は「電力の鬼」・「電力王」と冠されたこの人物で、現在の石田町印通寺浦で生を受け、少年期を壱岐で過ごしました。勉学のため壱岐を離れ、慶應義塾に通うが中退し、日本銀行や福松商会に勤めるも長続きせず、自分で会社を立ち上げ、途中浮き沈みはあったが一財産を築きました。特に近代日本の黎明を画するために電気事業に敢然と立ち向かう姿は、まさに「鬼」のようだったと云われています。戦後日本の復興は、”人心の高揚”と”エネルギーの拡大”にあると考え、その実現のために超人的精魂を傾けた。実際、今日の日本が世界の経済大国といわれる功績の一端を担っていたといえます。1971年(昭和46)に95歳で永眠しましたが、その業績を称え遺徳を偲ぶために全国の電カ会社や自治体等の協カにより生地である印通寺浦に松永記念館が建設されました。館内には生前愛用していた生活用品や書画、褒章、電力関係の品、屋外には福岡市で実際に走っていた路面電車が展示されています。

人物名 三富朽葉
生涯 明治23(1890)年
大正6(1917)年
生誕地 郷ノ浦町
業績 三富朽葉は、郷ノ浦町武生水地区で生まれました。7歳の時に東京に移り住み、明治35(1902)年に暁星中学校に入学し、フランス流の教育を受け、フランス文学に興味を持ちました。詩人としての才能も開花し、17歳の時に作品を発表して、詩人としての第一歩を踏み出しました。明治44(1911)年に早稲田大学を卒業し、「雨の唄」・「冬の唄」など次々と名作を世に送り出しています。朽葉は、家庭が裕福定職につかず、大好きな詩に没頭していたと云われています。大正6(1917)年に父親の別荘がある千葉県銚子の犬吠岬にて、親友の詩人今井白揚と共に溺死した。

人物名 山口麻太郎
生涯 明治24(1891)年
昭和62(1987)年
生誕地 郷ノ浦町
業績 山口麻太郎は、郷ノ浦町黒崎地区で生まれました。長崎通信伝習生養成所(ながさきでんしんでんしゅうせいようせいじょ)を卒業後、郷ノ浦町郵便局、台湾総督府民政部通信局、市町村雑誌社、対馬商船郷ノ浦支店などの仕事に従事する。大正10(1921)年に壱岐郡教育会主催の夏期講習において折口信夫の「民間伝承学」を聞き、柳田国男の民俗学に感銘を受け、柳田国男に入門し、民俗学について学ぶ。昭和8(1933)年に松永安左ェ門の支援を受けて私設で壱岐郷土研究所を開設し、郷土資料の収集・調査研究に没頭しました。研究の成果は「壱岐島の方言集」・「壱岐国史」・「壱岐国地名誌」などをはじめとした論文でまとめられています。昭和31(昭和6)年には、「昭和5年の郷土考古学界」の名で壱岐日報に論考として掲載し、一躍原の辻遺跡の存在を全国区へと導いた第一人者の一人です。

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