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歴史情報


壱岐の歴史情報
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1700(元禄13)年  『壱岐国図』を幕府に提出する【御廻記】
1700(元禄13)年  3月26日に大地震が起き、壱岐・平戸の人家が破損する【松浦家世伝】
1700(元禄13)年  江戸の無宿者100人を壱岐へ流罪とする【松浦家世伝】
1700(元禄13)年  藩主より天手長男神社〔郷ノ浦町〕に高2石・祭米6升5合寄付される【松浦家世伝】
1707(宝永4)年  庸岩が覚音寺〔立石西触〕に大般若経を奉納する〔現在、玉泉寺に有り〕
1707(宝永4)年  烽山金比羅神社〔東触〕に「宝永四年」銘の銅鰐口有り
1710(宝永7)年  河合曽良が勝本浦の中藤家にて病死する
1711(正徳1)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する【松浦家世伝】
1711(正徳1)年  瀬戸浦〔芦辺町〕が焼失する【松浦家世伝】
1712(正徳2)年  朝鮮通信使が勝本に入港する 同月9日勝本を出港し、対馬に入港する【松浦家世伝】
1713(正徳3)年  若宮神社〔北触〕に「正徳三年」銘の猿田彦神楽面有り
1713(正徳3)年  吉野秀政が箱崎八幡社家の吉野秀教の長男として生まれる
1716(享保年中)年  政治村落数(触と浦)111有り【壱岐国続風土記】
1716(享保1)年  平戸山口屋助左衛門が壱岐に来て捕鯨業を経営する
1717(享保2)年  箱崎恵比寿の丘に鯨供養塔を建立する
1719(享保4)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 8月1日勝本を出港し、藍島に入港する【申維翰海遊録】
1719(享保4)年  朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月20日夜中に勝本を出港し、翌日対馬に入港する【申維翰海遊録】
1719(享保4)年  爾自神社〔郷ノ浦町〕において朝鮮通信使のための順風祈願をする
1720(享保5)年  壱岐の飼育馬417頭〔駒65頭・駄馬352頭〕【郡鑑】
1721(享保6)年  壱岐国の人口39,376人、田1,030町、畑1,776町、牛8,666、鬼屋〔古墳〕194、酒屋34と記されている
1722(享保7)年  松浦篤信が聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神岳山本宮寺に寺領20石、神皇密寺に10石、観世音寺に5石1斗、覚音寺に5石寄付する
1722(享保7)年  藩主の命により国分寺〔芦辺町〕は本山となり、その開墾する田20石を賜い、今までの10石と合わせて30石となる また別に開墾する田10石を阿弥陀寺に賜う【年寄方日記寺社役記】
1722(享保7)年  大久保佐渡守が松浦氏に命じ壱岐の石窟〔古墳〕を調査させる 鴨井助五平と尾野尚意に島内を巡見させ、絵図を作らせる【松浦家世伝】
1723(享保8)年  長谷川元喜が湯ノ本に新田を開拓する【新田方記録】
1723(享保8)年  許斐氏〔加々右衛門〕が潟長江新田〔立石西触〕の開発に着手する【壱岐刈田院観音寺旧記】
1727(享保12)年  徳川吉宗が「甘藷栽培」を奨励する すでに壱岐では琉球イモ栽培が行われている
1727(享保12)年  勝本の土肥甚右衛門が郷ノ浦の許斐小左衛門、瀬戸の布屋九郎右衛門、芦辺の篠崎与右衛門の4人、共同して捕鯨を行う
1728(享保13)年  壱州鯨組方目付を配置する
1730(享保15)年  芦辺浦が火災に見舞われ、人家が焼失する【松浦家世伝】
1731(享保16)年  生月の益富又右ヱ門、江戸の油屋又右ヱ門ら5人が集まり、壱岐での捕鯨活動を行う
1731(享保16)年  瀬戸漁民が鰤網を考案する 勝本漁民が鮪網を考案する
1731(享保16)年  潟長江新田〔立石西触〕の開発が完了する【壱岐刈田院観音寺旧記】
1735(享保20)年  『壱岐巡り』が完成する 著者は橘三喜と伝える【壱陽伝記】
1716~1736(享保年中)年  藩では行政の必要上村の地図を作り、行政区画を設定する 名称を「触」とする
1738(元文3)年  住吉神社〔芦辺町〕が落雷を受け、御殿・拝殿・御饌舎が炎上する【壱岐国続風土記】
1739(元文4)年  前年、落雷で焼失した住吉神社の社殿を造営する
1739(元文4)年  小山弥兵衛が生野一揆の罪により壱岐へ配流される
1739(元文4)年  夷浦〔瀬戸浦恵比須〕、田ノ浦〔仲触〕の両捕鯨根拠地〔納屋場〕を益富又右ヱ門、土肥市兵衛の両家で経営とする【吉野文書】
1741(寛保1)年  深江村〔芦辺町〕の畑の畔より、古銭5貫文余が入った壺一口が掘り出される
寛保2  吉野秀政、亀岡城に招致され、藩主より『壱岐国続風土記』撰述の命を受ける(壱岐郷土史)
1742(寛保2)年  瀬戸浦と勝本浦の鯨組が、天手長男神社へ黒皮大神楽を奉納する【壱岐神社誌】
1744(延享1)年  吉野秀政が『壱岐国続風土記』の編纂を完了し、藩主松浦誠信に提出する
1748(寛延1)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 4月1日勝本を出港する【松浦家世伝】
1748(寛延1)年  朝鮮通信使が勝本に入港する 同月18日勝本を出港し、対馬に入港する【松浦家世伝】
1748(寛延1)年  朝鮮通信使来朝のため、爾自神社において順風祈願の大神楽を奉献する
1749(寛延2)年  松浦誠信が、聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神岳山本宮寺に寺領20石、神皇密寺に10石に5石1斗、覚音寺に5石寄付する
1753(宝暦3)年  国分当田新田の埋築工事が一部完成する〔起工者土肥八右衛門、土肥甚右衛門〕「土肥新田」と名づける【吉野文書】
1761(宝暦11)年  湯ノ浦が出火し、人家残らず焼失する【御廻記】
1762(宝暦12)年  土肥市兵衛が夷浦〔瀬戸浦恵比須〕を埋築して、捕鯨業根拠地を拡張する
1763(宝暦13)年  爾自神社〔郷ノ浦町〕において朝鮮通信使来朝のための順風祈願を行う
1763(宝暦13)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 12月3日勝本を出港し、藍島に入港する【松浦家世伝】
1763(宝暦13)年  朝鮮通信使が逆風により壱岐に滞留する 爾自神社において順風祈願の大神楽を奉する
1764(明和1)年  郷ノ浦が火災に見舞われる【松浦家世伝】
1764(明和1)年  朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 6月13日勝本を出港し対馬に入港する【松浦家世伝】
1764(明和1)年  朝鮮通信使の帰国のため、爾自神社において順風祈願を行う
1767(明和4)年  朝鮮に漂流した壱岐芦辺浦の3人が、対馬⇒長崎を経て、長崎奉行より引渡される【松浦家世伝】
1767(明和4)年  土肥市兵衛が勝本の本浦を開拓して邸宅〔御茶屋屋敷〕を構える 3年の歳月を費やしたと伝える【吉野文書】※現在は御茶屋屋敷石塀のみが残る
1773(安永2)年  土肥甚平治〔甚兵衛〕が、国分当田の新田開拓の許可を受ける【吉野文書】
1777(安永6)年  勝本の土肥甚平治が国分当田新田を開拓し、50町余り新たに増える【吉野文書】
1780(安永9)年  松浦清〔静山〕が亀丘城にて諸士を閲見する【松浦家世伝】
1780(安永9)年  松浦清が勝本の土肥八右衛門の別棟に泊る【松浦家文書】
1786(天明6)年  壱岐の人口が24,771人と記される
1792(寛政4)年  江戸諸役所が規格を定め、土肥・益富両家に御用金一万両の上納を命ぜられる【御廻記】
1792(寛政4)年  郷ノ浦のある今西商店〔藤四郎〕にこの頃の客面附牒〔同家に出入した島外の商人の名前控帳〕有り
1798(寛政10)年  国中の神社として、本社42座・末社794座、計836座の記録有り【壱岐国続風土記】
1798(寛政10)年  壱岐の飼育馬が35頭と記されている【壱岐国続風土記】



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