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歴史情報


壱岐の歴史情報
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599年以前600年代700年代800年代900年代1000年代
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1600年代1700年代1800年代1900年代2000年代


1602(慶長7)年  27代松浦泰岳久信が伏見にて没する 後年安国寺に拝塔を建てる
1604(慶長9)年  壱岐国の石高15,732石と記録される 〔うち立石村559石・布気村359石・本宮村637石・香須村640石・新城村696石と記されている〕【平戸分領并壱岐嶋田畠惣目録】
1607(慶長12)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 翌日勝本を出港し藍島に入港する【慶七松海槎録】
1607(慶長12)年  朝鮮通信使が名護屋を出港し、同日勝本に入港する 翌日勝本を出港し、対馬に入港する【慶七松海槎録】
1610(慶長15)年  西間村〔古来からの呼び名〕を旧に戻して「石田村」と改める
1612(慶長17)年  松浦鎮信が聖母神社の拝殿を再建する【壱岐神社誌】
1613(慶長18)年  松浦隆信が領土の地高目録を幕府に提出する 壱岐を17,729石と定める
1613(慶長18)年  全国に禁教令を敷く 宣教師プレネスティノの書簡に「壱岐の島」の名が出てくる
1617(元和3)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 翌日勝本を出港し、藍島に入港する【呉楸灘東槎上日録】
1617(元和3)年  幕府朱印状に壱岐国壱岐郡9,816石余、石田郡7,910石余と記される【台徳院様御朱印状写】
1617(元和3)年  朝鮮通信使が呼子を出港し、壱岐の西南津を通り対馬へ直行する 同日に到着対馬に入港する【呉楸灘東槎上日録李石門扶桑録】
1617(元和3)年  松浦隆信が聖母香椎宮に社領2石・安養山東光寺〔仲触〕に知行5石を寄付する
1619(元和5)年  モラレスとメーナ神父が壱岐へ連行される
1619(元和5)年  モラレスとメーナ神父が4月4日まで「ユキノシマのイッシュの所」に抑留される
1619(元和5)年  モラレスとメーナ神父が大村の鈴田牢屋へ移される
1620(元和6)年  ズニガが壱岐の石田にある平戸藩の牢舎に送られる【切支丹伝道の興廃】
1620(元和6)年  ズニガの壱岐での牢舎生活の手紙有り【切支丹伝道の興廃】
1621(元和7)年  アミール日本に渡来する 平戸宇久港で捕えられ、壱岐の獄舎に繋がれ、のち平戸のタバラ刑場において殉教する
1622(元和8)年  カミルロ・コンスタンツオの宿主野島が壱岐の島にて処刑される【鮮血遺書】
1622(元和8)年  オクスチン大田の宿主ガブリエル金次郎が壱岐島にて処刑される【鮮血遺書】
1623(元和9)年  安国寺の僧秀国が命を受けて上洛する 龍光院江月和尚と師弟関係になる 以来安国寺は南禅寺派を脱し、大徳寺派となる【壱岐国続風土記】
1624(寛永1)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 同月24日に勝本を出港し、藍島に入港する【姜弘重東槎録】
1624(寛永1)年  深澤義太夫(儀太夫)が壱岐に来て、銛鋒突法による捕鯨業を営む
1624(寛永19)年  長門豊浦郡住吉の社家篠崎宮内正興、嫡子隼人とともに諸吉清石浜に到着し、芦辺浦に住吉神社を鎮座する 地名を「豊浦」と改める
1625(寛永2)年  朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月15日に勝本を出港し、対馬に入港する【姜弘重東槎録】
1625(寛永2)年  松浦隆信が聖母香椎宮に社領2石寄付する
1625(寛永2)年  松浦隆信が聖母山神皇密寺〔坂本触当時竜宮寺〕に寺産10石、神岳山本宮寺〔新城西触〕に寺領20石寄付する
1635(寛永12)年  豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1636(寛永13)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 同月27日勝本を出港し、藍島に入港する【任参判丙子日本日記】
1637(寛永14)年  朝鮮通信使が藍島を出港し、対馬に直行し、翌14日に入港する【任参判丙子日本日記】
1640(寛永17)年  平戸領内の道筋に並木を植える 壱岐島では勝本街道の大手ノ辻大屋原・百間馬場・亀石、芦辺街道の長松などに植樹する【御廻記】
1641(寛永18)年  岳ノ辻と若宮島に遠見番と烽台を置く【吉野家文書】
1643(寛永20)年  松浦鎮信が神岳山本宮寺〔新城西触〕へ寺領20石、聖母山神皇密寺〔坂本触〕へ10石、白花刈田院覚音寺〔立石西触〕へ5石、本宮八幡宮〔本宮西触〕へ社領2石寄付する
1643(寛永20)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 同月17日勝本を出港し、名護屋に入港する【徳川実紀】
1643(寛永20)年  朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月27日勝本を出港し、対馬に入港する【癸未東槎日記】
1624~1644(寛永年間)年  明石善太夫・吉村五兵衛らが、小川島と壱州印通寺浦に鯨組を構える【鯨記】
1644(正保1 寛永21)年  聖母神社に「寛永二一年」銘の石燈籠有り
1645(正保2)年  壱岐国に派遣された絵師が『壱岐島絵図』〔正保絵図〕を作成し藩主に提出【松浦家世伝】
1645(正保2)年  正保絵図に「触」が書かれており、藩庁から藩民への通達に各地域に吏員〔触役〕をおき、“お触書き”を使用する
1652(承応1)年  谷江潟に新田2町、大左右松崎の新田15が開拓される
1652(承応1)年  深江村鶴木下ル浜の住民70余戸を郷ノ浦に移す
1653(承応2)年  豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1653(承応2)年  松浦鎮信が平戸の田助に新地を築き、壱州と小値賀の浦人50人を移し、新三浦が出来る 又、郷ノ浦に長さ300間、横8間の新地を築き、家70軒余を建てる
1654(承応3)年  豊浦〔芦辺町〕が再度大火事に遭い焼失する。
1655(明暦1)年  朝鮮通信使が対馬を出港し、同日壱岐屋久(若宮)島に入港する 同月26日勝本を出港し、藍島に入港する【徳川実紀】
1656(明暦2)年  朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月12日勝本を出港し、対馬に入港する【南壺谷扶桑録】
1656(明暦2)年  疫病が大流行する 諸吉〔芦辺町〕と可須〔勝本町〕の農民ら半数以上死亡する【勝本祠官系譜】
1656(明暦2)年  検地の結果、壱岐の田高20,164石、畑高11,405石、新開田14,281石と記されている【明暦二年田方帳】
1656(明暦2)年  松浦鎮信の命により、箱崎村平江〔芦辺町〕の入江を埋築し、約20町歩の新田を開拓する【吉野文書】
1660(万治3)年  印通寺浦〔石田町〕が焼失する
1660(万治3)年  松浦鎮信が鷹狩を行うために来島する 浦人に米を与える
1661(寛文1 万治4)年  初山村〔郷ノ浦町〕の犬切という小山に新たに田畑を開き、百姓25軒を移す
1661(寛文1万治4)年  湯ノ本潟〔湯本浦〕に48間に25間の新地を築き、浦人25軒を移し、入湯者の休泊所とする
1661(寛文1 万治4)年  深沢儀太夫が竜蔵寺〔芦辺町〕の客殿を造り替える
1662(寛文2)年  筒城村堂崎〔石田町〕に夕部浦の浦人13戸を移す【吉野屋譜】
1662(寛文2)年  恵比須浦〔芦辺町〕の鯨組が平戸吉村又右衛門、谷川利兵衛、網屋惣左衛門、江口十左衛門、磯部弥一郎、明石播磨屋又右衛門、瀬戸松屋与四兵衛、大村深沢儀太夫の八人共同となる【西海鯨鯢記】
1663(寛文3)年  聖母神社に「寛文三年」銘の猿田彦神楽面有り
1664(寛文4)年  豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1664(寛文4)年  松浦鎮信が山本甚左衛門を従えて壱岐に入り、長嶺三津の辻・物部大原〔以上郷ノ浦町〕・池田田崎〔石田町〕で鷹狩を行う その後安国寺〔芦辺町〕にて演能を観覧する【壱岐史拾遺】
1664(寛文4)年  今里〔芦辺町〕と夕部浦〔石田町〕の民家を棚江に移す のち八幡浦〔芦辺町〕と改める【松浦家世伝】
1664(寛文4)年  壱岐の飼育馬が430頭余と有り【壱岐史拾遺】
1671(寛文11)年  豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1671(寛文11)年  度重なる火災に見舞われたため、「豊浦」を「芦辺浦」と改める
1672(寛文12)年  牛の疫病が流行する〔新庄・箱崎・諸吉より始まる〕 角上〔郷ノ浦町〕に牛神を奉納する〔のちの津神社〕
1661~1673(寛文年間)年  壱岐国に城代を置く【平戸藩法令規式集成】
1673(延宝1 寛文13)年  春浦のため、鯨組を勝本より対馬へ移動する
1673(延宝1 寛文13)年  芦辺浦〔芦辺町〕が焼失する
1673(延宝1 寛文13)年  『鯨場中日記』に「寛文13年5月~延宝2年5月の壱岐漁場の記録」有り
1673(延宝1 寛文13)年  本宮八幡宮〔本宮西触〕に「寛文十三年」銘の猿田彦神楽面有り
1674(延宝2)年  華光寺雲版に「宗靍在」銘品有り
1676(延宝4)年  橘三喜が対馬より壱岐勝本浦に入る【一の宮巡詣記】
1676(延宝4)年  橘三喜が、延喜式内社の24社を訪ねる【一の宮巡詣記】
1676(延宝4)年  鉢形嶺〔郷ノ浦町〕の頂上から石碑発見 「延久二年正月一五日」銘有り
1676(延宝4)年  式内社査定により「水元の天神」を「水神社」〔布気触〕と改める
1676(延宝4)年  中津神社〔北触〕に「延宝四年」銘の石造明神鳥居有り
1677(延宝5)年  鉢形嶺〔郷ノ浦町〕の頂上より温石弥勒像発見 「自延久二年三月至三年六月成就」の銘有り
1680(延宝8)年  勝本に押役所を置く【勝本祠官系譜】
1680(延宝8)年  深沢儀太夫が捕鯨に網漁法を発明 「突組」を改め「網組」漁法に改める
1681(天和1)年  鉢形領に経筒を再び埋め戻す
1682(天和2)年  朝鮮通信使が対馬を発出港し、同日勝本に入港する 同月9日勝本を出港し、藍島に入港する【金譯士東槎日録】
1682(天和2)年  朝鮮通信使が藍島を出港し、対馬に直行する 翌17日に入港する【金譯士東槎日録】
1689(元禄2)年  黒崎〔郷ノ浦町〕の金山の採掘をやめる【松浦家世伝】
1689(元禄2)年  熊野神社〔立石南触〕に「元禄二年」銘の石造明神鳥居〔鎮信鳥居〕有り
1696(元禄9)年  松浦任〔棟〕が聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神皇密寺〔坂本触〕に寺領10石、神岳山本宮寺〔新城西触〕に10石、覚音寺に5石寄付する
1697(元禄10)年  壱岐の村落名を旧名に復する〔香椎村を可須村、中郷村を那賀郷村、住吉村を鯨伏村、桜江村を物部村〕
1697(元禄10)年  山本甚左ヱ衛門と藤原清方によって壱岐郡と石田郡の郡界が改められる【吉野文書】



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