壱岐市立一支国博物館
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 本塔の基礎には四脚の脚が取り付けられ底面が上げられ、基礎上部の4面に、「天文五丙申 孟蘭盆吉日 孝子誌之以 為高翁瑞秀」の銘文が刻まれています。島内では最大級の宝篋印塔で、彫刻も優れており風格があります。基礎に刻まれている「高翁瑞秀」は『華光寺前亀後鑑鬼簿』〈過去帳〉によれば、「波多壱岐守盛(はたいきのかみさこう)」の法名といい、「其御墓御塔年ノ丘にあり」と記されています。『壱岐国続風土記』・『壱岐名勝図誌』もともに「野州大守墓 横頭山」と記されていますが、両書はまた「前壱州大守墓 波多壱岐守墓年ノ丘」とも記しています。 肥前上松浦波多郷〈現佐賀県東松浦郡〉を治めていた波多氏は、文明4年(1472)の波多泰(やすし)の代から泰の子である興(こう)、興の子が盛とほぼ1世紀にわたって壱岐全島を統治していました。波多壱岐守盛は大永3年(1523)に壱岐守に就任し、天文11年(1542)、同16年とも)に世を去ったと伝えられています。本塔は天文5年(1536)の銘があることから、同年に造立された供養塔とすると、まだ盛は生存しているため宝篋印塔の対象が盛であったかどうかは解明できていません。

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