壱岐市立一支国博物館
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 歌に『うちかすむ 壱岐のわたりを見渡せば 鯨のいぶきたたぬ白もなし』とあるように昔から壱岐の近海には毎日のように確認されるくらい多くの鯨がいたことがうかがえます。そのため壱岐では古くから有力な捕鯨基地として知られ、深沢氏も鯨組(突組)を組織し、組主として江戸時代の70年余年継続して活躍していたといわれています。初代深沢義太夫勝清は大村藩領波佐見村(=現東彼杵郡波佐見町字中尾)に生まれ、中尾次郎左衛門と呼ばれていました。中尾次郎左衛門は杵島藩主渋江一族の流れをくむ名門の郷士であったが紀伊国(現和歌山県)に出向き、捕鯨法を学び、大村にもどり大村藩主の許可を得て鯨組を編成し、大村を総基地とし崎戸・松島まで広げ操業を始めたといわれています。また漁場の基地を次々と増やして次第に遠洋へと拡張し、北は壱岐、西は生月・五島といった島々にまで及んだといわれています。それによって巨万の富を得ることとなったが、私利私欲にとらわれることなく新田開発によって農民の生活安定に寄与し、藩にも多額の運上金を献上したことによって大村純長より深沢姓を賜っています。その後、中尾次郎左衛門改め深沢義太夫勝清を名乗りました。壱岐では瀬戸恵比寿に鯨組を構え、捕鯨に活躍したといわれている人物です。死後、功績を残した義太夫の菩堤を弔うため、1666年(寛文6年)に龍造寺内に供養塔が建てられています。

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