名所の詳細情報 |
2基の宝篋印塔は、東触字馬場ノ坂の通称高山と呼ばれる丘(84.7m)に存在します。「華渓(かけい)」の2文字が刻まれています。「華渓」は対馬の宗氏の息女で、唐津岸岳城主波多宗無の妻室だったと云われています。正安3年(1301)2月、対馬にいる父母を訪ねる船中で発病し、渡良大島から本居浦に寄港して同月27日に死亡しました。華渓の「唐津と対馬の見えるところ」という遺言によりこの高山に埋葬されました。菩提所の華渓院は、華渓の子の天祐貴公が草創したと云われています。華渓院は、それから200年後の永正3年(1506)、波多盛(さこう)によって改築され、山号を如意山、寺号を華光寺と改められました。山号は、華渓の夫、宗無の法名「如意院鉄心宗無居士」に由来していると云われています。華渓の墳墓である本塔は、華渓が死亡した正安3年(1301)直後のころの造立か、華光寺建立の永正3年(1506)の造立かはっきりしていません。宝篋印塔に鎌倉時代の様式がみられないことから、永正3年(1506)前後、室町時代の作と考えられています。
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