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捕鯨には「突組」と「網組」があり、壱岐島の「突組」は明応年間(1492~1501年)の頃に、紀州熊野の日高吉弥らによって始められたと云われています。壱岐の「突組」捕鯨の組主のほとんどは島外の人で、島内の人による「突組」捕鯨は寛永年間(1624~1644年)の頃になってから始められたと云われています。延宝2(1674)年には平戸の谷村組をはじめ、17の「突組」が壱岐を舞台に活動していた記録が残っています。延宝5(1677)年、勝本浦で大村の深沢儀太夫が「網組」捕鯨を始めたと云われています。「網組」は文字通り網を鯨にからませて鯨の動きを封じ、刃刺がとどめを刺す捕鯨のやり方でした。「突組」時代と比べると鯨の捕獲数が増え、処理のために大規模な施設(納屋場)が必要になり島内の各地に納屋場が造られました。「網組」はおとなしい背美鯨を狙い、捕れた鯨肉・内臓・骨などの全てが利用されていました。鯨肉は食用に、鯨油は灯油や害虫駆除に使われ、骨粉は肥料として売られていました。壱岐の捕鯨は、元禄年間(1688~1704年)から享保年間(1716~1736年)の頃に最盛期を迎え、弘化年間(1844~1848年)の頃より捕獲数が激減し、明治30年頃の郷ノ浦の今西音四郎組を最後に壱岐の捕鯨は終わりを迎えました。
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