名所の詳細情報 |
清信は那賀村中野郷の本田直太郎の四男として生まれました。1907年(明治4)年3月に長崎県師範を卒業し、郡内の学校で教壇に立ち、盈科(えいか)小学校校長を最後に教育界を去りました。学習の中に”自主勉強の時間”を設けるダルトンプランを導入し、一時県下一の教育王国を築いたのもこの本田清信の功績が大きな影響を与えたといわれています。またアメリカ教育視察の際には、郡内の校長及び教頭ら6人で渡米しています。今日の主体的学習グループ活動等はこのときにすでに実施していました。退職後は県議会議員に4回当選し、長崎県教育委員長に選ばれています。清信は教育界に留まらず、製茶や葉タバコなどの産業奨励し貢献しています。これらの功績から1960年(昭和35)に芦辺町名誉町民に選ばれています。その3年後、老衰のため他界し、79歳の人生に幕を閉じました。死後、郷土の那賀小学校の校庭に清信の記念碑を建てて、その功績を永く伝え村民の誇りとして語り継がれれています。晩年清信は養家の久田姓を名乗り、久田清信として勲6等が授与されています。
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