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1501(文亀1)年
中津宮〔北触〕を造営し、遷宮する【壱岐神社誌】
1506(永正3)年
波多三河守盛が、「華渓院」を改め「如意山華光寺」として開山する
1524(大永4)年
河北中郷〔芦辺町〕が、松浦興信の領地となる【松浦家文書】
1526(大永6)年
聖母香椎宮〔勝本浦〕の内殿を造り替える
1527(大永7)年
水元〔布気触〕の天満天神の御霊形を再興する
1528(享禄1 大永8)年
神岳山金蔵寺〔新城西触〕に「大永八年」銘の木造地蔵菩薩坐像有り
1528(享禄1 大永8)年
報恩寺〔本宮東触〕に「大永八年」銘の木造十一面観世音菩薩坐像有り
1531(享禄4)年
熊野大権現本宮〔立石南触〕の御神体の裏書きに「享禄4年11月17日大旦那源盛宮権少僧都澄慶」とあり ※源盛は岸丘城主波多壱岐守源盛(松浦叢書)
1534(天文3)年
釈菊淵が清水谷〔立石西触〕の竜谷院を開く
1535(天文4)年
神岳山本宮寺〔現・神岳山金蔵寺〕所蔵の大般若経の奥書に「1月25日波多壱岐守源朝臣義」と記す【壱岐史拾遺】
1537(天文6)年
波多弾正忠源武が若宮大明神〔北触〕の宝殿・庫蔵を造立する
1537(天文6)年
神岳山金蔵寺に「天文六年」銘の木造地蔵菩薩半跏趺坐像有り
1538(天文7)年
平戸城主の松浦興信が中野郷瀧の上妙泉寺を建立する
1541(天文10)年
報恩寺〔本宮東触〕に「天文十年」銘の木造十一面観世音菩薩坐像有り
1547(天文16)年
明室灯儀大和尚が亀鶴山安楽寺〔立石仲触〕を開く
1551(天文20)年
異雪和尚〔長門国大寧寺十三世〕が龍蔵寺を開く
1555(弘治1)年
波多氏は藤堂丸〔のちの波多三河守親〕を養子とし家をつがせる
1555(弘治1)年
六人衆に追われ、有安鵜の部海岸〔郷ノ浦町〕にて波多隆と馬渡弥八右ヱ門、草履取一人と共に自害する
1555(弘治1)年
波多隆、立石三河・牧山善右衛門・牧山大舎人・下條将監・下條掃部・松本左近らの六人衆の陰謀を聞いて亀丘城を脱出
1552~1555(天文年間)年
日高大膳が箱崎村船匿城〔芦辺町〕に居住する
1556(弘治2)年
六人衆は波多重を筒城権現崎〔石田町〕にて射殺する【華光寺鬼薄】
1557(弘治3)年
六人衆が壱岐を分治する
1562(永禄5)年
文明和上が妙喜山源長寺を布城〔立石南触〕に開く
1562(永禄5)年
波多信時が壱岐国分天満祠〔芦辺町】を再建する【松浦家世伝】
1563(永禄6)年
日高甲斐守喜が歳晩の祝詞に岸岳城へ登城し城を焼き波多親母子を追放する これより日高甲斐守喜が上松浦・壱岐を治める【松浦家世伝】
1563(永禄6)年
波多三河守信時の後室新芳が茶宴に事よせ、毒味を与えて老臣日高大和守資を暗殺する【松浦家世伝】
1564(永禄7)年
日高甲斐守喜は歳晩の祝詞のため岸岳城へ登城し、城に火を放つ 後室新芳と藤堂丸〔波多親母子〕は日高氏の女二人を人質に草野ヘ逃れる これより日高甲斐守喜が上松浦と壱岐を治める
1565(永禄8)年
松浦氏は守護代として井関宗蓮を壱岐に派遣する【松浦家記録】
1565(永禄8)年
日高甲斐守喜が壱岐に入り、波多政とともに六人衆を滅ぼす 波多政を壱岐城代として上松浦へ戻る
1566(永禄9)年
松浦隆信が立石重兼に恩賞として刀・馬を与う〔六人衆の乱の処理〕【松浦家世伝】
1566(永禄9)年
天手長男神社〔郷ノ浦町〕の棟札に司島として上総介源壹の名あり【天手長男神社棟札】
1566(永禄9)年
松浦隆信が壱岐に来島する
1566(永禄9)年
松浦隆信の家臣波多重が井関宗蓮を討ち、壱岐国を回復する【松浦家世伝】
1567(永禄10)年
『壱岐国田帳〔永禄田帳〕』が完成する
1567(永禄10)年
肥前国の波多信時の臣日高甲斐守喜が松浦隆信の傘下に下る 隆信は日高甲斐守喜を壱岐城代として壱岐国を守らせる【大曲覚書】
1567(永禄10)年
松浦隆信は華光寺に寺領2町2反を寄進する
1569(永禄12)年
日高軍は松浦軍の援兵を受け、安国寺を攻める 波多隆・重の兄弟は松浦隆信の家臣西常陸の手によって殺害される【松浦家世伝】
1569(永禄12)年
松浦鎮信軍が暴風に遭い、日高氏の岸岳城に向かうのが遅れる【松浦家世伝】
1558~1570(永禄年間)年
志原村軍越神社を古軍越丘より今の位置に移す
1570(元亀1)年
長峰村〔郷ノ浦町〕の高峰神社宝殿を再建する 棟札に日高甲斐守喜と有り
1570(元亀1)年
湯岳〔芦辺町〕に印鑰大明神拝殿を造営する 棟札に壱岐正守護日高甲斐守源喜と有り
1570(元亀1)年
日高甲斐守喜は松浦隆信軍の援軍を受け、壱岐城代の波多政を倒す 壱岐守護と称して全島を治める
1570(元亀1)年
松浦隆信が壱岐の亀丘城を修築する
1571(元亀2)年
日高甲斐守喜は誓紙と人質を松浦隆信へ送り、松浦氏へ属することを誓う 松浦隆信は人質の女を二男信実の妻とし、信実を壱岐城代とする
1571(元亀2)年
宗義調が壱岐を攻めるが日高軍と松浦軍の連合軍の前に敗れる〔浦海の合戦〕
1571(元亀2)年
松浦鎮信は壱岐の援軍として兵士300人を率い平戸を出発する
1571(元亀2)年
筒城山根に西福寺を開く
1572(元亀3)年
筒城社務の平田宮千代が『神名品書』を編纂する【壱岐神社誌】
1572(元亀3)年
亮賢が実相院を神岳里〔新城西触〕に開く
1573(元亀3)年
暹空が若宮山金蔵寺〔北触〕を再興する
1572(元亀3)年
松浦隆信が若宮大明神〔北触〕の宝殿を再建する
1573(天正1)年
松浦鎮信が壱岐に入り、国中を巡見する
1573(天正3)年
大盛和尚が雲岫山興禅院〔片山触〕を開く
1576(天正4)年
中津宮〔北触〕を造り替え、遷宮する【壱岐神社誌】
1578(天正6)年
ポルトガル船の「ナオ号」が印通寺浦に入港する【中尾内蔵多正重の代】
1580(天正8)年
頼秀が聖母山神皇密寺〔勝本浦〕を開く
1584(天正12)年
照隣和尚が高峯山寿慶庵を立石嶺〔立石西触〕に開く
1586(天正14)年
宗義調が兵を遣わし、壱州を攻めるが失敗に終わる
1586(天正14)年
壱州の賊が、対馬の仁位郷を侵す【津島史略】
1586(天正14)年
松浦鎮信が壱岐を17,729石と定める
1587(天正15)年
松浦鎮信が壱岐神岳山の僧を対馬に遣わし、宗義智との和議を求める【日高文書】
1588(天正16)年
壱岐私蔵の武器を収公する【松浦家世伝】
1591(天正19)年
豊臣秀吉が松浦鎮信に命じ勝本城を築く 本多因幡守俊正(俊政)に守らせる【松浦家文書】
1592(文禄1 天正20)年
勝本城頭に稲荷神社を建立する【壱岐神社誌】
1592(文禄1 天正20)年
聖母神社に「天正二十年」銘の飴釉三耳壺有り
1592(文禄1 天正20)年
宗靏沙門が聖母大菩薩へ茶壺を奉納する
1592(文禄1 天正20)年
加藤清正が聖母香椎宮〔勝本浦〕の石垣を築いたと云われている
1592(文禄1 天正20)年
小西行長や松浦鎮信軍が、勝本を出港し、対州に至る【壬辰戦乱史】
1593(文禄2)年
文忠が妙喜庵を布城打門〔立石南触〕に開く
1593(文禄2)年
日高甲斐守喜が朝鮮平安道松山城にて討死する【廣澤家譜略寫】
1594(文禄3)年
明の使い一行を勝本でもてなす【松浦家世伝】
1594(文禄3)年
八幡浦〔芦辺町〕が形成される【蜑戸伝語】
1598(慶長3)年
日高玄蕃が神託により日高甲斐守喜の霊祠を建てる
1598(慶長3)年
加藤清正が朝鮮より壱岐国に帰着する【黒田家譜】
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