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700年
伊吉博徳が大宝律令の編纂に参与し、功績が認められ賜禄される【続日本紀】
706(慶雲3)年
九国三島の干害と風害に対し、使を遣わして調査し、被害の大きい所は調と課役を免じる【続日本紀】
717(養老1)年
勅命により聖母宮〔勝本浦〕を建立する【壱岐神社誌】
718(養老2)年
神岳三所権現〔新城西触〕を鎮座する【神岳三所大権現縁起】
718(養老2)年
壱岐と対馬を下国と規定する【養老令】
720(養老4)年
異族、数万艘の軍船で壱岐に襲来すると必ず北風が吹く これを“聖母の北風”という【聖母社記】
724(神亀1)年
聖母宮を再興し、ト部高巣が奉る【聖母社記】
729(天平1)年
壱岐郡と石田郡の郡境を定める
729(天平1)年
行基が刈田院覚音寺〔立石西触〕を開く
730(天平2)年
壱岐守板氏安麻呂と壱岐目村氏彼方が、大宰府帥老宅で九州全国官人の宴に出席する【万葉集】
731(天平3)年
壱岐・対馬に初めて医師を任命する【続日本紀】
736(天平8)年
雪連宅満が遣新羅使の一行に加わり新羅に向かうも壱岐で病死 のちに壱岐の石田野に埋葬される【万葉集】
737(天平9)年
筑紫配備の防人を本国に帰し、筑紫の人に壱岐・対馬を守らせる【続日本書紀】
741(天平13)年
壱岐・対馬に国分寺〔島分寺〕の建立が命ぜられる
742(天平14)年
壱岐島や対馬島の官人の禄は筑前国司に命じて、廃府の物の中から支給される
744(天平16)年
壱岐にも国分寺〔島分寺〕の設置が決まる【続日本紀】
744(天平16)
壱岐は国分寺を新たに建立せず、壱岐直の氏寺を壱岐国分寺〔壱岐嶋分寺〕と改める【類聚三代格】
759(天平宝字3)年
大宰府や壱岐などに軍船100を置く事を上申するものの実現せず【続日本紀】
763(天平宝字7)年
壱岐島が疫病に見舞われる【続日本紀】
765(天平神護1)年
石見・美作・紀伊・讃岐・淡路・壱岐・多褹の7国が飢饉に見舞われる【続日本紀】
768(神護景雲2)年
壱岐島が飢饉に見舞われる【続日本紀】
769(神護景雲3)年
外従五位下田部直息麻呂を壱岐島守に任命する【続日本紀】
771(宝亀2)年
日向・大隅・薩摩三国、壱岐・多褹両島の博士・医師は、終身の任を改めて八年交替とする【続日本紀】
772(宝亀3)年
貞婦玉主売の功績が称えられ「勅賜爵二級」を与え、田租を終身免ずる【続日本紀】
773(宝亀4)年
壱岐島天位ト部道作・和気清麻呂が宇佐八幡宮に於いて神意を問うにあたり、ト占の任を果たす【宇佐託宣集】
776(宝亀7)年
壱岐島に大風が吹き、苗を失ったため、今年の税を免じる【続日本紀】
787(延暦6)年
ト部道作、聖母神社(勝本浦)に奉仕する【聖母社記】
787(延暦6)年
月読神社(芦辺町)鎮座【月読神社記】
788(延暦7)年
壱岐島5社〔本宮・箱崎・筒城・印鑰・聖母〕を定める【壱岐神社誌】
795(延暦14)年
対馬・壱岐を除き、防人を廃止する
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