【私の八月十五日展】戦争経験者のエピソード (2012.08.18更新) |
| | 2012年7月13日から8月5日の会期で開催しました特別企画展「私の八月十五日展」に多くの皆さまのご来場を頂き、 誠にありがとうございました。戦争を知らない世代が人口の7割を占める昨今。 企画展会場では、作品をご覧になった戦争経験者がご自身の体験を静かに語られるお姿も度々お見かけしました。 あの時代を生き抜いた方々の経験談を後世に伝え平和について改めて考えて頂く機会になればとの思いから、 当館では「私の八月十五日」と題してアンケートコーナーを設けました。戦争を経験された多くの皆さまが、 当時のエピソードを綴ってくださったことに感謝致します。 こちらに、皆さまからのコメントを掲載させて頂きます。
■柳澤幸子さん 壱岐市在住 73歳 女性 その日は、太陽がぎらぎら照りつける真昼頃だった。 遊びから帰ると、ラジオの前で母が泣いていた。母とどんなやり取りがあったかははっきり覚えていないが、戦争が終わったことは分かった。 わたしは嬉しかった。もう、B29の爆音は聞かなくていい。空襲警報のサイレンも鳴らない。防空壕にも入らなくていい。ほんとにほんとに嬉しかった。 でも、声には出せなかった。子ども心にも嬉しいと言ってはいけないのだと、周囲の雰囲気で察することができたのだ。 心の奥にしっかりしっかり抱きしめた。
当時、私は六歳、国民学校一年生だった。警戒警報のサイレンが鳴ると、地区別に廊下に並び、防空頭巾を被り、上級生の後について人目につかないように山の蔭に隠れたようにして家に帰っていたものだ。それも、戦争末期になると近くの育児院が学校の役割をしていて、そこでは、詰襟の学生服を着たお兄さんが先生だった。一年生から六年生まで一緒に過ごしていたように思う。今で言う複式学級だったのだろう。授業があった記憶は無い。友達と遊んでいても、サイレンが鳴ると急いで家に帰るのだ。途中で飛行機の爆音が聞こえてこようものなら、生きた心地もなく走りに走って帰った。母の顔を見ると、泣きそうになったことを覚えている。いえ、きっと泣いたであろう。 その時、すでに父は戦死していた。 私が、戦争が終わって嬉しかったのは、この様な経験があったからだ。 でも、戦争は、戦後の苦しい生活の始まりでもあったのだ。 福岡で迎えた、私の八月十五日である。
■壱岐市在住 80歳代 男性 思い出すのも嫌です。
■壱岐市在住 70歳代 男性 私は芦辺町瀬戸浦の出身です。私の町には暁部隊の兵がいました。あの日、八月十五日は晴天を記憶しています。小学5年生でした。漁業組合の棚で大砲の玉を日に当て手入れをされていました。当時、軍の人の名前は今でも記憶にあります。押方見習士官と福田軍曹でした。私も一緒に玉の手入れを手伝っていましたが、正午ですか、天皇陛下の玉音放送を上記の兵隊さんと聞き、何も意味も分かりませんが、忍び難きを忍び、耐え難きを耐えという言葉は今でも覚えています。押方見習士官は悔しかったのだろうか、軍刀で竹をパッサリ切った。
■大分県 70歳代 男性 国民学校3年の時、隣のラジオ放送で戦争が終わったことを知りました。 小学3年生でもはやく大きくなって、お国のために戦争に行って手柄をたてたいなと思っていたので、泣いた事を思い出します。
■壱岐市在住 60歳代 女性 父がよく、暑いときは終戦記念日のことを、寒い冬はシベリア行軍などの体験談を話していました。 もし講座の話を聞いていたら、そうじゃった、そうじゃったと言って、また話し始めていたかも・・・。
■壱岐市在住 60歳代 女性 戦争が終わって僕らは生まれた−世代です。おじが沖縄戦で亡くなり、5回くらい(家族では10回以上)沖縄へ行きました。 焼酎を慰霊碑にかけて、全員で飲んでねと言って帰ります。
■壱岐市在住 50歳代 女性 祖母が生前、壱岐の上空をB29が飛んで行ったことや、壱岐に落ちてきた事を話してくれた。 こんな田舎の小さな島にも戦争は悲しい記録を(記憶も)たくさん残していった事を忘れてはいけないと、しみじみ感じた。
■壱岐市在住 40歳代 女性 私の母は昭和8年生まれです。終戦の時に「兵隊さんがワンワン泣いて帰っていた」と話してくれました。 母自身も「もう防空壕に逃げなくていいんだ」と思ったそうです。
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